今帰仁伝

最近今帰仁のことが頭から離れません

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てぃーだブログ

今帰仁の面影グスク時代

読谷山

沖縄県立博物館・美術館館長をされておられる田名真之氏のなどの著書によると
”ゆんたんざ(ユンタンジァ)” に訓読で漢字を充てられて ”四方田狭” と表記されていたそうだ

恩納村山田の地域にあたる ”読谷山ムラ” の ”山田グシク” 北西に隣接する ”古島” を訪ねると
”四方を田んぼに囲まれた狭い場所” だったであろう狭隘な地形がみてとれる

               ・・・・雰囲気は ”平家落人の隠れ里”

”読谷山” は沖縄島の恩納村谷茶以南より北谷町の範囲に存在していたようだ

キャンプフォスターに接収されている北谷地区の ”たぁぶっくゎー(田袋)” で見つかった ”妖刀 北谷菜切” は ”今帰仁グシク” の築城に用いられたとの伝承があり国宝として那覇市立博物館に収蔵されている


その後に北谷はいつの頃か分割され第二尚氏時代の1673年には谷茶以南が分割されて ”読谷山ムラ” は ”山田ムラ” となり現在では恩納村の一地区となった
これらの分割は首里からみた地方の豪族の力を弱めるためであったという







沖縄の ”三山時代” この辺りには三山の影響の及ばない人々が住んでいた

”北山” と ”中山・南山” に挟まれたこの地域・・・・ ” 読谷山”

”第四の王国” はあったのだろうか
                                    
                           ・・・・妄想



追記)
これまで訪問してくださった皆様ありがとうございます
2019年3月ごろより当ブログ ”今帰仁伝” のカテゴリーを姉妹ブログの ”電柱のある風景” へ移しております
”今帰仁伝” はそのまま残しておきますが ”電柱のある風景” でも今帰仁関連の記事を細々と更新していく予定ですので今後ともよろしくお願いいたします

今帰仁の面影グスク時代夢の跡(現代まで)

江州グシク

2019年3月27日の沖縄タイムスに
うるま市では ”江州グシク” の文化財指定に向けてグシク内の古墓の調査を行なっているとの記事が載っていた

”江州グシク” は城郭の石垣は確認されず土塁で形成され ”おもろさうし” では ”つち(土)くしく” と謳われていたようだ

古墓の中には第一尚氏第6代尚泰久王五男の ”江州按司” を始祖にもつ ”武姓” の方々が眠っているとのことだ

その前は1453年に起こった第5代尚金福王の死後に王位をめぐり争われ首里城が焼失した ”志魯・布里の乱” の ”布里” がいたとされている

1322年 ”山北:後今帰仁” の帕尼芝に追われた ”中今帰仁仲宗根若按司の八男今帰仁王子” は美里伊波の地へ逃れ ”伊波グシク” を築いた
”今帰仁王子” は 伊波(伊覇)按司初代となり伊波按司2代目の六男は第6代勝連按司となった

第6代勝連按司は ”浜川按司” に敗れ戦死したという

”浜川按司” の娘はおそらく後年 ”察度” の妃となった人物だろうか・・・・

勝連を奪われた ”伊波按司” は ”伊波グシク” を扇の要に ”具志川(グシチャー)” の地に ”安慶田グシク” をはじめとして ”天願グシク” ”具志川グシク” ”喜屋武グシク(キャンマーブ)” そして ”江州グシク” を ”勝連グシク” の周りを取り囲むように配置した
そして ”伊波グスク” の後方には ”山北:いわゆる北山王国” を睨むように ”山田グシク” を配している



・・・・同じくタイムスには国立台湾大学から返還され沖縄県埋蔵文化財センターに保管されている琉球人遺骨の記事も載っている

この会のどこかの大学教授は ”琉球人のアイデンティティー” のため遺骨が納められていた今帰仁の ”百按司墓” の戻して風葬にすべきだと・・・・
・・・・何か歴史を隠すため主張しているように見える考え方

私は ”うちなぁ” で生まれ育った ”うちなぁんちゅ” として・・・・すなわち所謂 ”琉球人” ではありません・・・・
遺骨は大切に保管されて私たち ”うちなぁんちゅ” の人類学や遺伝学の面から ”ルーツ” を探るためのこの上もなく大事な残された遺物であると思っている
これを単純に風化させていいものだろうか・・・・?

今帰仁の面影三山時代第二尚氏時代

先中グシク

本日(2019年1月24日)の県内二紙の記事によると
”中城教育委員会が中城城跡の城壁補修のため石積みの解体作業を行っていたところ城壁の内部に ”護佐丸” 以前に ”中グシク” にいたと伝承された ”先中グシク按司” が築いたと推定される城壁を発見”

さらに

”これまで ”中グシク” の築城はこれまで14世紀後半とされていたが古い城壁の基礎となっている地層から出土した中国の陶磁器の一部から築城の年代は14世紀前半(1300年代前半)まで遡り ”中グシク” の歴史が書き換わることになる”



1322年に怕尼芝(はにじ:羽地)に追われた ”中今帰仁の王子(八男)” は美里伊波の地に逃れて ”伊波グシク;美里グシク” を築いたとされる

今帰仁王子は伊覇按司初代となり ”今帰仁王子・二代目伊覇按司(長男) 高瀬按司(二男) 大湾按司(三男) 玉グシク按司(四男) 山田按司(五男) 瀬長按司(六男)” が生まれている     
#高瀬がどこか不明です.越来?

伊覇按司二代からは ”三代目伊覇按司(長男) 安慶名大川按司(三男もしくは五男) 勝連按司(六男) 幸地按司(八男) 中グシク按司(十男)が生まれている

先代山田按司(仲昔今帰仁按司弟)” の後に 初代伊覇按司の兄 が ”山田グシク” を継いだが男子に恵まれず 初代伊覇按司次男(もしくは9男) を養子に迎え後年に ”伊寿留・護佐丸・安里清信・山田之子” が誕生した
#嘉手納町教育委員会が作製した ”屋良大川按司の墓(後大川)” を参考
#伝承などにより表現の異動があります

1440年 ”護佐丸” は ”座喜味グシク” から ”中グシク” へ居城を移した
そしてこれまでの ”中グシク按司” の後裔は ”先中グシク按司” となり現在の糸満市真栄里に ”先中グシク” を築いた





画像は糸満市真栄里の ”先中グシク” です

”護佐丸” の築城技術は優れていたとされる
”崇元寺” の創建に関わったとされる ”護佐丸の異母兄弟;安里清信(安里大親)” の技術のおかげかも知れない

”安里清信” は ”大城掟” として石工集団を抱えていた?

”護佐丸・阿麻和利の乱” の後に ”安里清信” は ”護佐丸の遺児” の ”盛親” の養父となった 

今帰仁の面影夢の跡(現代まで)

今帰仁世





那覇市国場の ”登野城之御獄” で

ここには国場自治会により整備され九つの拝所が合祀された祠がある
それぞれの由来はよく分からないらしい

その中には “今帰仁世” の石碑が・・・・

“今帰仁世” は沖縄の歴史区分で言われる ”三山時代” の前の ”グスク時代” のことなのだろうか・・・・
・・・・後世に消され書き換えられた時代

国場の標高の高いところ(沖縄大学付近?)には ”今帰仁” を遙拝する場所があるらしい

今帰仁の面影グスク時代夢の跡(現代まで)





北谷町砂辺で

昭和六十二年に字砂辺の人々が再建された ”拝所 伊平屋ウトウシ神”
北方の伊平屋島への遙拝所(御通し)

今帰仁グシクから伊平屋・伊是名島を近くに眺望することができる
伊平屋島は伝承では第一尚氏の一族の出身地とされる・・・・おそらく経由してきたところ

”Wikipedia” によると ”琉球語(琉球方言)” の中の ”北琉球方言(奄美沖縄方言群)” は沖永良部島から恩納村仲泊〜うるま市石川を結ぶ範囲で ”沖永良部与論沖縄北部諸方言” と区分されている

この範囲はかつて(おそらく三山時代以前グスク時代以降) “今帰仁” の影響が強かった地域だと思われる

また ”北琉球方言” の中の ”沖縄方言(沖縄中南部諸方言)” のうち ”津堅島方言” や ”久高島方言” を ”沖永良部与論沖縄北部諸方言” に入れる研究者もいるようだ

”沖縄方言” の地域に区分される中南部では ”首里方言(王国時代に成立した士族標準語)” や ”那覇方言(商業における共通語的方言)” が次第に広がって古くからあった ”沖縄北部諸方言(国頭方言)” は次第に消えていったのかも知れない

沖縄中南部の各地に今帰仁への ”御通し” が散在している

中南部の ”今帰仁子(今帰仁の末裔)” は ”今帰仁上り” を現在でも行っているところがある

今帰仁の面影夢の跡(現代まで)

浦添グシクから




北の方を眺望すると ”彼等” がかつて辿ってきた道が見えるような気がする

崖下西方の英祖王陵 ”ユゥードゥリ” や英祖王の父が眠る ”伊祖の高御墓” は故地が望める様に北方を向いて造られた

遠く読谷山岳の右方に夕暮れに霞む本部半島の八重岳がうっすらと見える

北からやって来た ”彼等” はやがてこの地に “グシク” を築いた

今帰仁の面影グスク時代



八重瀬町玻名城で

具志頭村教育委員会が作製した説明板には

”んぢゃ井は,古琉球時代において,この井の南東方の山の上にあった花城部落の住民や,花城(後に多々名城に変わる)という城の城中の人々の唯一の水源であった.

南山軍が多々名城を攻めた時,南山軍はこのんぢゃ井を占領して多々名城への水の供給を断って,やっと多々名城を占領することができた.水攻めである,(以下省略)”

と記されている

・・・・南山が侵入する前までこの地にはどのような人々達が暮らしていたのだろうか?

今帰仁の面影グスク時代



1287年中今帰仁按司の遺児 ”丘春” はかつての按司の旧臣たちと共に ”本部大主” より今帰仁城を奪還した

”本部大主” の一族は各地へ逃れていった

”本部大主” の三男 ”東名大主:あがりなうふす” は二人の甥と共に平安座島を経て上与那原の地に到達し ”上与那原村” 発祥の祖となった

甥の一人は ”東大里:島添大里” に仕え ”謝名大親” と名乗った
他の甥は ”与那原大屋子” と呼ばれ子孫は大里古堅などに広がった

後世その子孫達は与那原の発展のために尽力された

画像は与那原町役場前にある ”東名大主拝所” の祠です

”東名大主拝所” の右奥には西の方角へ ”今帰仁遙拝所” が置かれている

現在でも ”東名大主” などの ”門中” は7年おきに ”今帰仁上り” を行う

今帰仁の面影夢の跡(現代まで)



比謝川河口より南岸の ”イユミーバンタ通り” を赤橋に向けて辿る

やがて ”イユミーバンタ(屋良バンタ)” の中腹にある ”イリタケーサーガマ” が見えてくる

ここは1322年今帰仁へ向けて建てられた

周辺にはいつもゆったりとした時間が流れている
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