今帰仁伝

最近今帰仁のことが頭から離れません

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てぃーだブログ

今帰仁の面影グスク時代夢の跡(現代まで)

江州グシク

2019年3月27日の沖縄タイムスに
うるま市では ”江州グシク” の文化財指定に向けてグシク内の古墓の調査を行なっているとの記事が載っていた

”江州グシク” は城郭の石垣は確認されず土塁で形成され ”おもろさうし” では ”つち(土)くしく” と謳われていたようだ

古墓の中には第一尚氏第6代尚泰久王五男の ”江州按司” を始祖にもつ ”武姓” の方々が眠っているとのことだ

その前は1453年に起こった第5代尚金福王の死後に王位をめぐり争われ首里城が焼失した ”志魯・布里の乱” の ”布里” がいたとされている

1322年 ”山北:後今帰仁” の帕尼芝に追われた ”中今帰仁仲宗根若按司の八男今帰仁王子” は美里伊波の地へ逃れ ”伊波グシク” を築いた
”今帰仁王子” は 伊波(伊覇)按司初代となり伊波按司2代目の六男は第6代勝連按司となった

第6代勝連按司は ”浜川按司” に敗れ戦死したという

”浜川按司” の娘はおそらく後年 ”察度” の妃となった人物だろうか・・・・

勝連を奪われた ”伊波按司” は ”伊波グシク” を扇の要に ”具志川(グシチャー)” の地に ”安慶田グシク” をはじめとして ”天願グシク” ”具志川グシク” ”喜屋武グシク(キャンマーブ)” そして ”江州グシク” を ”勝連グシク” の周りを取り囲むように配置した
そして ”伊波グスク” の後方には ”山北:いわゆる北山王国” を睨むように ”山田グシク” を配している



・・・・同じくタイムスには国立台湾大学から返還され沖縄県埋蔵文化財センターに保管されている琉球人遺骨の記事も載っている

この会のどこかの大学教授は ”琉球人のアイデンティティー” のため遺骨が納められていた今帰仁の ”百按司墓” の戻して風葬にすべきだと・・・・
・・・・何か歴史を隠すため主張しているように見える考え方

私は ”うちなぁ” で生まれ育った ”うちなぁんちゅ” として・・・・すなわち所謂 ”琉球人” ではありません・・・・
遺骨は大切に保管されて私たち ”うちなぁんちゅ” の人類学や遺伝学の面から ”ルーツ” を探るためのこの上もなく大事な残された遺物であると思っている
これを単純に風化させていいものだろうか・・・・?

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